このブログについて
このブログは、元々私が2015年から書いていたブログの中から介護についての内容を独立させたものです。
私は、40代になってまもなく義父母のお世話がスタートしたのですが、アルツハイマーの義母が施設に入所したころから、わが家の一人娘が難しくなり(いつも難しいんだけど輪をかけて)、その後不登校からひきこもりへと移行しています。
その娘のことがきっかけとなり、家族支援メンタルサポート協会の森理事長との出会いがあって、私自身『家族支援カウンセラー』の資格を取得することとなりました。
そして、自分の体験をブログにするよう理事長から勧められ、このブログの元となった『思春期ブルー相談室ブログ』を始めたわけです。
娘のことと並行して義父母のお世話があり、日々いろんなことが起こるので、義父母のエピソードも記事にしていました。
読者の方は、基本的にお子さんの不登校やひきこもり、発達障害やグレーゾーンでのお悩みがある方なんですけどね…。
でも、世代的に親の介護が始まっている方もいらっしゃるようなので、書く意味はあったと思いたいのですが、いかんせん親が二人とも他界してしまった今、『思春期ブルー相談室ブログ』の方で親のことを書くのは抵抗を感じるようになりました。
そこで、新しくブログを作ることとしたのです。
2019年1月にスタートし、2020年6月で最終回となっていますので、本当に備忘録。
思春期ブルー相談室としてはnoteで更新中です。
■おとうさん…昭和7年生まれ。長野県出身。高度成長期を支えた典型的な元サラリーマン。愛嬌たっぷりのお茶目なせっかちさん。2018年没、享年85歳。
■おかあさん…昭和9年生まれ。東京都出身。洋裁やお料理が得意なおっとり系。アルツハイマー病となり長年施設に。2017年没、享年83歳。
亡くなった義母からメッセージが届いたかもしれない話
みなさん、こんにちは。
家族支援カウンセラーの海野しぶきです。
私が思春期ブルー相談室のライブドアブログをスタートしたのが2015年。
義理の両親が亡くなって介護が終わるまで続けました。
そして介護が一段落した2019年、気持ちを一新すべく、不登校関係のブログと介護関係のブログを分けてはてなブログでスタートし、こちらの親の方は一応今回が最終回となります。
2017年に他界した義母は、アルツハイマーと診断されておよそ10年、寝たきりとなってからは4年ほどがんばってくれました。
寝たきりでも反応はありますから、なるべくおかあさんの気持ちを想像してお世話はしましたけど、本当のところどう思ってたかはわからないんですよね。
それでも、前回の記事にも書いたとおり、最期の数日間はおかあさんが自分の意思でこれを起こしている、と感じることがたくさんありました。
こういう人生の選び方もあるんだなぁと、しみじみ考えさせられたものです。
認知症って、本人が混乱してる時期は家族も辛いですけど、痛みや苦しみは少なく、家族はゆっくりと時間をかけて心の準備ができるという、いかにも長寿社会の日本ならではの特徴ある病いだと思います。
長ければ長いほど、いい思い出を振り返る時間もありますしね。
義母がまさにその典型で、最期のおかあさんはほぼ魔法つかいだったので、半ば感動しながら送り出せました。
心の中で生きている感覚は今でもあり、それは生きてたころと、なんら変わりないんですよね。
しかも私はこうやってブログ記事を書いているので、毎日思い出していますし。
感覚的には、しばらく会ってない人を思い出す感じです。
ただ連絡は取れませんし、おかあさんが夢に出てくるわけでもなく、私の一方通行な片思いですけどね。
翌年におとうさんも亡くなってからは、残念ながらおかあさんの新しいエピソードを聞くこともなくなりました。
そんな中、ちょうど1年前の2019年7月1日のことです。
私は実母から呼び出され、都内で3カ所場所を変えながら、その日10時間も愚痴を聞く羽目になりました。
1日だけと覚悟して、気が済むまで付き合うと決めていたので、本来ならあまり聞きたくない内容もがんばったのです。
ここで、私の親を軽く紹介するとですね、世間体が大事でプライドが高く、差別が大好きな、いわゆる毒親です。
不登校の子を持つ親にありがちなんですけど、私自身はひたすらいい子ちゃんであることを求められて育ちましたし、自分もそうあるべきだと思っていました。
娘が発達障害と診断され、不登校になってから自分の親が毒親だと気づき、以来反面教師となってますし、私の方は心の距離を保っています。
で、ですね。
私と夫は中学時代の同級生なので、母親同士もPTAの集まりで顔見知りです。
中学以降の高校、大学は別だったんですけど、近所に住んでお付き合いは続いていたので、いずれは結婚、ということは誰もが思っていたんですね。
私としては、その前に家を出て一人で暮らしてみたかったのですが、父親が長く単身赴任してましたし、母親が断固として許してくれませんでした。
それもあって、親に気をつかい、なかなか結婚したいと言い出せずにいたんです。
私が25歳になったころ。
その当時は広告制作のバイトをしていて、たまたまウエディングの担当をしました。
たくさんのホテルや式場の資料を見るうちに、むくむくと結婚願望が強くなり…。
会社の先輩方にも相談して、付き合いが長いんだから、まず私の親を説得して、それから向こうの親に伝えて、周りから固めるのだ!と作戦を練りました。
そして作戦決行の日、彼の家に遊びに行ったときに「結婚したい」と話しました。
まぁ、ようするに逆プロポーズですよ。
彼はそれで熱出しちゃったんですけどね😅
半ば私に脅されて、まず彼のおかあさんに話してもらったところ、おかあさんは「やっぱり!」と言ったんですって。
で、私の母親と10時間話した日に話は戻りますが、ひょんなことから義母の話題となりました。
私が結婚したいと悩んでいた当時、私が自分の親に話すよりもちょっと前に、おかあさんから母に電話があって、
「そろそろあの子たちを結婚させてあげませんか?」
って言われたそうなんです。
これ、たぶん初耳。
もし、当時言われてたとしても、すっかり忘れてました。
そのとき、うちの母親はおかあさんからの提案に
「そうですね〜、もう長いですもんね。」
と返事したとか…。
どうりで、私が親に言ったとき反対されなかったのか、これでわかりました。
2人の外泊も、一人暮らしも、ヒステリックに拒否するばかりだった母が、手のひらを返したように結婚をOKしたのは、おかあさんからの後押しがあったからだったんですねぇ。
この話が聞けただけで、すごい収穫!
あとの母の話はもう考えなくていいや!
と思えました。
亡くなったおかあさんが、私たち夫婦を応援してくれている、と感じることができたのです。
実はですね、この話が聞けたから、今年4月のコロナ禍の引越しも心折れずに乗り切れたと思うんです。
ひきこもりの娘はポッキリ折れましたけど、そのケアも、今は楽しんでいます。
きっと私は、おかあさんとたましいのつながりがあるんですね。
こんなふうに考えると、死ぬのは怖くないし、実は楽しみなことかも、なーんて。
ただ、あちらで待ってくれている先輩方に、恥ずかしくない生き方をしなくてはいけないな。
生き切らないと。
生き抜かないと。
と、私自身は強く思っているのです。
… お し ま い 。
最後まで続けて読んでくださった数名の読者の方々には心より感謝しております。
今後、海野しぶきとしては、noteの記事をがんばって更新しますので、よろしければまた見に来てくださいね。
本当にありがとうございました😊
最期のときを、選べる生き方
前回の記事で登場した、地域包括支援センターのおとうさんの担当だった人がわが家に来たとき、こんな話を聞きました。
最期のときまで十分生ききった人は、その瞬間を、ある程度自分で選べるんだとか。
彼は、こんな経験を話してくれました。
以前看取りもする介護施設で働いていたときのこと。
夜勤当番だった日の夕方、そろそろだな、というおじいさんに呼ばれて、
「今日の夜勤はあなたなの?〇〇さんは?」
と聞かれたとか。
おじいさんが〇〇さんのファンだったことはそこでは有名な話なので、彼女の夜勤の日を教えてあげたら、おじいさん、
「じゃあ、今晩はやめとこうかな。」
と言ったんですって。
その時は(どういう意味だろう?)と、ちょっと怖くてすぐに返事できなかったそうですけど、考えれば考えるほど、(そういうことだよな〜)と…。
で、実際にそのおじいさんは、お気に入りのかわいい〇〇さんが夜勤のときに亡くなったんだそうです。
「似たような話は、この仕事をしていればみんないくつか持ってます。」
と話してくれました。
彼からこんな話を聞き、そういえばおかあさんもおとうさんもそうだったなぁと思いました。
律儀なおかあさんは、施設の方に桃のお中元をし、夏休み明けに出勤してくる施設のおかあさん担当の子を待って、お世話になったスタッフさん全員に会ってから逝きました。
さらに、見送る家族も、まるでおかあさんが選んだかのようだったんです。
その日、次男である私の夫は夏休み初日だったため、私たちは朝から施設で見守っていました。
ここまで5日間飲まず食わずでがんばってきたおかあさんも、昼過ぎに呼吸が弱くなり体温も下がってきたので、その日出社していた長男に連絡を入れました。
午後、会社を早退して都内から千葉まで駆けつけてくれた長男が到着すると、おかあさんは待っていたように呼吸が変わりました。
すぐに医師に診てもらったところ、あと20分、と言われたのです。
慌てて病院に入院しているおとうさんに電話をし、やっと通じた電話を切った途端、おかあさんはすーっと去っていきました。
ただ、ここだけの話。
実はおかあさん、長男の奥さんとはあんまり反りが合わなかったみたいで。
本人に直接何か言ったり、逆にお嫁さんの方から何か言われたり、ということはなかったのですが、そういうことだそうです。
まぁ、人間ですから合う合わないがあるのは仕方のないことだと思いますけど、おかあさんはそれを全く表に出さない人でした。
長男家と付き合いの薄いわが家は、あちらからも何も聞いていませんでしたから、お互いに距離を保っていたのかもしれませんね。
私が知ったのは、おかあさんが施設に入って寝たきりとなってから、おとうさんに過去の話として聞いたのです。
なんですけど。
おかあさんね、旅立ちの瞬間は、長男の奥さんがまだ到着していないときだったんです。
彼女が電車でこちらに向かっている途中のことでした。
たぶんおかあさん、意図的にそうしたんじゃないかな?
これは、私と夫だけのヒミツですけどね!
でも、意識がなくてもそういうことができるんだと思います。
一方。
おとうさんのときは、前日にお風呂に入っておひげも剃ってもらい、子どもたちもみな集まりました。
おとうさんが逝ったのは、スタッフが仕事をスタートする朝の時間帯で、みなさんが入れ替わり顔を見せる間の、誰もいなかったたった5分の間のことでした。
元気なころから「なるべく迷惑をかけたくない」と言っていましたし、いかにもおとうさんらしい狙い方!
逝くところは誰にも見られたくないけど、なるべくすぐに見つけてもらいたかったんじゃないかな〜?
おとうさん、せっかちだから。
何時間も誰にも気付いてもらえないのは嫌だったでしょうし、笑顔のままだったのも、おとうさんのやりたかったことなんだと思います。
「笑って死にたい」って言ってましたから。
前におかあさんの施設のケアマネさんが、「いかにもその人らしく亡くなっていく」って言ってたんですけど、おとうさんもおかあさんも、実に「らしかったなー」と思います。
それに、認知症で意思の疎通ができないまま亡くなったとしても、たましいにはちゃんと意思があって、生きてるときにはできなかったパワーをつかい、いろんな現象を起こしていたような気がしています。
おかあさんなんて、7年くらい意思の疎通ができませんでしたが、最期はほんとにすごかったもの!
お天気まで操作してましたし。
辞めちゃったスタッフさんまで呼び寄せてましたから。
たまたま通りかかったんですって。
病気の肉体にくっついているたましいは不自由かもしれませんが、肉体から離れれば自由ですものね。
計画を練って、おかあさんなりに思う存分生ききったんだと思いました。
たましいになればこそ、やれることがあるんですね。
おかあさんの生きざま、おとうさんの生きざまを見て、今の私は認知症になるのも悪くないし、怖くもないんだな、とも思えるようになりましたよ。
ということで、今回はこんな話でした。
一応、このブログは次回でおしまいにする予定です。
2019年1月。亡くなった義父のことで、疑問が解消した話
今回の話は、亡くなった義父がお世話になっていた地域包括支援センターの担当者の方が、わが家にお線香をあげに来てくれたときの話です。
おとうさんが2018年10月7日に亡くなり、それから約3カ月経った2019年1月半ばのこと。
わが家のリビングで亡くなるまでの経緯を担当者さんに話すうちに、疑問に思っていたことが解消しました。
おとうさんは、白内障手術は予定通り行なったのですが、その手術直前に転倒して背骨を圧迫骨折してから、どうも携帯電話がうまく操れなくなってしまったんですね。
電話をしても出ないし、ラインも既読になりません。
病院にお見舞いに行ったときに聞いてみると、「ぶっ壊れた」とか言ってましたし…。
電話を見せてもらうと、充電切れだったりして。
【そのときの記事はこちら】
おとうさんが施設に移ってからの2018年9月初旬、地域包括センターの担当者さんから私に電話があり、急な展開で引っ越されたので、直接おとうさまに電話をしてご挨拶したい、ということでした。
もしかしたらもうわからないかもしれないとは伝えましたが、折り返しすぐまた電話があり、たった今おとうさんと話せたと。
私もそのあとすぐにかけてみたんですけど、やっぱり通じずでした。
そのわずか数日後に、おとうさんは急にしゃべれなくなくなり、緊急入院。
10日後、延命治療を望んでいなかったおとうさんの意志を尊重し、救急病院から施設へと戻りました。
私は、9月30日に初めて施設にお見舞いに行きましたが、世話をしている義姉の話だと、倒れる前のおとうさんは、携帯にお友だちからメールや電話がきた際、
「おとうさん、〇〇さんから電話だよ、出る?」
と聞くと、首を振ったり、手でバッテンをしたりするんだそうです。
…私が送ったラインも電話も、あえて出なかったのかなぁ〜…
と、私の心に引っかかっていたんです、ずっと。
やっぱり嫌われていたのかなぁ、って…。
ところが今回、地域包括支援センターの人が言うには、あの時にかけた電話は、おとうさんが自分で受けたわけではなく、たまたまその時部屋に施設のスタッフがいて、その人がまず受けてくれて、それからおとうさんに代わったのだとか。
つまり、施設に入った時点で、もう自分で電話に出ることはできなくなっていたはず、ということでした。
だから、私からの着信をチェックして、わざと出なかったわけではないと思いますよ、と。
なんだか、それがわかっただけでもスッキリしましたし、ホッとしちゃいました。
それと、もうひとつの疑問。
おとうさんが入所してすぐ、この担当者さんと長男が電話したら、「ここにいるしか方法がない」と言っていたそうなんです。
息子たちには「帰りたい、戻りたい」と電話していたので、私は違和感を感じてたのですが、この日の会話で、これは担当者さんの創作だとわかりました。
実はおとうさん、担当者さんにも「想像と違った。やっぱり戻りたい。」と言ったんですって。
「でも、息子さんたちが困るだろうと思って、親切心からウソをつきました。」
と話してくれました。
彼は、おとうさんが大動脈弁狭窄症と診断されて、病院から介護認定を勧められたときから担当してくれていたので、そのころからおとうさんが「いずれは施設」と言い続けていたことを聞いてきました。
でも当時から彼と私は、おとうさんには施設は合わないだろうと言ってたんです。
個室とはいえ部屋は狭いですし、プライベートはあるようでなし。
食事やお風呂の時間も決まっていて、大抵は食堂でみなさんといただくわけです。
今の賃貸マンションなら2LDKをひとりでゆったり好き放題。
ひとりでチビチビお酒を飲みながら大音量でテレビを見て、好きなときに寝る、というわけにはいかなくなります。
なので、よっぽどのことがない限り、ギリギリまで自宅で暮らした方が良いと感じていました。
それが、白内障の手術前に転倒したことで、「これはよっぽどだ。」と判断せざるを得ない状態になってしまったと…。
おとうさんからの度重なるメールや電話で、おとうさん本人が施設に満足していないんだな、と私は感じていたので、担当者さんがカミングアウトしてくれたことで、そういうことだったのかー!と、やっと納得できました。
やっぱりおとうさんは一貫しておとうさんだったのです。
でも、最期に身近で世話をしていた長男夫婦にとっては必要な、優しい作り話だったと思います。
この日、彼がお線香をあげに来てくれたのは、もしかしたら私のモヤモヤを解消させようと、おとうさんかおかあさんが、気を利かせてくれたのかもしれないですね。😉
ということで今回の記事は以上です。
お読みいただきありがとうございました。
このブログはあと2回で終わります。
別れのあいさつとお迎えの話
義母がアルツハイマーになって寝たきりとなり、そろそろ覚悟が必要だな、となってから、お迎えに関する本を読みました。
「お迎え」されて人は逝く 終末期医療と看取りのいま (ポプラ新書 66) [ 奥野 滋子 ]
この本を読んで大いに納得し、義母が亡くなる時は、誰が来てくれるのかなー、きっとおかあさんがすぐわかる人なんだろうなー、と楽しく?待てるようになったものです。
2017年8月、義母が亡くなった時は、危篤状態になってから5日間頑張りました。
【そのときの記事はこちら】
この5日間、蜂窩織炎(ほうかしきえん)で入院中だったおとうさんが病院に戻り、私が部屋でひとり静かに見守りをしていたら、おかあさんが両目を開けてくれたことがあったんです。
もう数年ほとんど起きることもなかったので、久しぶりに目が覚めた顔を見ました。
ちょうどそのとき、清掃スタッフの方が部屋に入ってきて、びっくりしてます。
「私はもうここで3年以上仕事してますけど、開けるとしても片目なんですよ。あら〜!
両目とも開けてるなんて、私は初めてみましたよ〜。」
ずいぶん長いこと両目でこちらを見てくれて、お口も動いています。
私は失礼してスマホで録画させていただき、あとからお見舞いに来た長男夫妻にも見てもらいました。
義母が目を開けたのはこの時だけ。
もしかしたら私に挨拶してくれてたのかな、なんて。
そのつもりで、私からもおかあさんにはたくさんお話しできましたし、お別れのあいさつもできたと思います。
一方、おとうさんの看取りの時は、しゃべることはできなくなっていましたが、目は開いていますし、腕や頭も動かせました。
こちらの言っていることは理解しているようです。
ただ、おとうさんはかすれた息の声となってたので、残念ながら聞き取れない感じ。
この日、私たちがお見舞いに行っている間に、おとうさんは何度も天井の方を見て嬉しそうな表情をしていました。
一度は私に話しかけるようにして、「ほら」という顔で天井の方を手で指したりして。
そのようすを見て、長男夫妻は
「おかあさんが迎えに来てるんじゃない?」
と言ってました。
その時は「かもしれないね〜」と話を合わせておきましたが、帰りの車中、夫と私は、なんとなくおかあさんじゃなくて、おとうさんの雰囲気からすると、親代わりだったおじさんじゃないか、と話したんです。
昭和7年生まれのおとうさんは幼少のころ父親を亡くし、10代半ばに母親も亡くなっています。
18歳の時に集団就職で上京するまでは、年の離れた姉夫婦が親代わりとなって、経済的にも世話をしてくれたそうです。
その義理の兄が、数年前に亡くなっていたので、私と夫は、そのおじさんがお迎えに来てくれたんじゃないかと想像したんです。
それから数ヶ月後のこと。
そのおじさんの妹さんの旦那さん(義理の弟になるのかな)が、おとうさんより4カ月ほど前の6月に亡くなっていたことがわかりました。
おとうさんの義理の兄と、その義理の弟さんの二人は、いつも連れ立って遊んでいて、おとうさんにとっては憧れの存在だったんですって。
そのお二人には、数年前私たち一家とおとうさんで田舎に行ったときに実際お会いしています。
なので喪中ハガキで亡くなったことを知ってとてもびっくりしたんですけど。
おとうさんが入退院を繰り返していたので、あえて連絡してこなかったそうです。
それで、もしかしたら、おとうさんをお迎えしてくれたのは、そのお二人だったんじゃないかしら、と思いました。
私と夫は比較的最近会っていたので、おとうさんも「ほら見てごらん」みたいなようすで私たちに教えていたのかもしれないですよね。
なーんて。
今回はこんな話でした!
このブログはあと3回で終わります。
2018年10月7日朝。義父があちらの世界に旅立ちました
前回からの続きです。
10月6日(土)にお見舞いをし、これが最後だと思ってさよならの挨拶をした翌朝、義兄から電話がありました。
施設から連絡があり、先ほど亡くなったとのこと…。
朝の仕事でスタッフが入れ替わり部屋を訪れ、みなさんからの朝のあいさつに笑顔を見せていたおとうさん。
ほんの5分ほどの誰もいない間に、笑顔のまま息を引き取っていたそうです。
夫が長男から知らせを受け、私に教えてくれました。
私は、「やっぱり」というのが第一声。
いかにもおとうさんらしい亡くなり方です。
娘は、おじいちゃんが亡くなったと知り、大粒の涙をこぼして固まってしまいました。
こういう非日常の一大事が起こると、娘は途端に3歳の子どもみたいになりますね。
一人で留守番するよりは、と一緒に施設に行きました。
施設のお部屋で、洋服に着替えて眠っている笑顔のおじいちゃんを見て、娘はまたぼろぼろに泣いてますが、私と夫は
「アハ。ホントに笑ってる!」
と思わず口に出てしまうほど、なんだか嬉しい気持ちになりました。
前日の苦しそうなところを見ていたので、その顔を見て、ホッとしたのです。
ホーム長さんも話してくれましたが、お風呂に入ってさっぱりして、家族のみなさんに会えた後、安心したように亡くなる方が多いんだそうです。
義母があまりにも見事に美しく、意識がないながらも施設のスタッフ全員にあいさつし、お天気まで操作して亡くなったのもすごかったですが、義父が笑ったまま、ちょっとの隙に誰にも見られずにさよならしたのも、いかにも義父の美学がそこにあるような気がしました。
これはこれで、見事な旅立ちだったと思います。
その日、自宅に戻ってからの夕方、私たち夫婦は犬を連れてビアガーデンに行き、ビールを飲みながらたくさん話しました。
不謹慎でふさわしくない表現かもしれませんが、その時の私と夫は、あちらの世界に帰ったおとうさんに対して、
「良かったね。おめでとう!」
という言葉を贈りたい気持ちでだったんです。
私たちは10年間、本当に濃い時間をおとうさんと過ごしたと思います。
2年前から病気が続き、入院、手術の合間を縫って、自分のエンディングに向けて慌てていたおとうさん。
前の年に義母が亡くなってからは、急速に体力が衰え、この夏は混乱し、私のことを怒る人と思っていました。
でも、最期は仲直りできたと思います。
おとうさんが亡くなって私たちが施設に到着したら、前日の昼食を中止すると判断してくれたスタッフとばったり廊下で会いました。
おとうさんが施設に入ってばかりのころ、スタッフたちに
「しゃべれる人がいなくなって寂しい。言葉を忘れてしまった。」
と話していたのが印象に残っているそうです。
白内障の手術で入院する時まで、毎日私と話していましたからね。
だから義父は私を見て泣いたんだと思います。
せっかちなおとうさんに振り回されっぱなしの10年でしたけどね。
最期は、おとうさんが自分で言っていた
「笑って死ねたらいいよね。」
を実現したわけですから、ほんとにあっぱれです。
夫と二人、ビアガーデンでいろんな思い出話をしましたが、2人で泣きながら笑ったのが、おとうさんの「爆笑エンディングノート」の話。
市販のもので、いつもテーブルの上に置いてあったので存在は知ってましたけど、おとうさんがいた間、私はあえて見ていなかったんです。
まさか白内障の手術から家に戻ってこないとは思いもしなかったので。
でも、転んで退院できなくなり、そのまま施設行きが濃厚になったころ、パジャマの追加を取りに行った際にひとりで見させてもらいました。
何か大事なメッセージがあるかと思いきや…。
書いてあったのは、金庫の開け方のみ。
太い油性マジックでたどたどしく、右回しで8とか、左回しで4とか。
その開け方だけ!
何カ所かに書いてあったんですけど、全部それ。
おとうさん、お茶目にも程があります!
一度、金庫の番号が思い出せなくて困った、って言ってたので、そのころ書いたんでしょうね。
ノートをめくりながら、ひとりで笑ってしまいました。
結局、その金庫は入院前に私と一緒に整理しましたから、開ける必要もなくなったんですよね。
しかもそのノート、長男夫妻は施設に入所するおとうさんの荷物を運び出したときに、持って行かなかったんです。
この悲哀がなんともおかしくて、私は「爆笑エンディングノート」と名前をつけさせていただきました。
そんなことを思い出しながら、夫と泣き笑い。
まったくもっておつかれさまでした、おとうさん!
ほんとに良かったね、おめでとう。
そちらの世界で、自由に楽しく過ごしてね!
…と、何度目かの乾杯をしたのでした。
ということで、今回は以上です。
長くなってしまいましたがここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
このブログはあと4回で終わります。
2018年10月6日。予定を早めて義父のお見舞いに
9月30日(日)に施設にお見舞いに行った話の続きです。
そのお見舞いの翌週は、土日月の三連休でした。
連休初日の10月6日(土)は、義父が8月まで住んでいたわが家の近所の賃貸マンションに、義兄が手配したケーブルテレビ業者や生前整理業者が見積もりに来る予定。
日曜日も用事があったため、義父のお見舞いは10月8日祝日の月曜日に行くつもりでした。
業者が見積もりに来る前日の10月5日(金)に、9月30日以来音沙汰のなかったブラザーズのグループラインに、おとうさんのようすを質問してみたところ、夜になってたくさんのメッセージが届きました。
「先週は話をしようとしたり、何とか意思の疎通が取れていたけれども、今週は寝てばかり。」
「腰の痛みがあまりにも強いため、2日前から痛み止めの薬を飲んでいる。」
「体力はかなり落ちてきていて、脱水も進んでいる。」
「力が無いため、舌が喉の方にいってしまい、無呼吸の時間が多く長くなっている。」
「飲み込む力が弱いので、水分もなかなか取れず、すぐにむせてしまう。」
「起きている時は手をよく動かしたり、少しずつ体勢を変えたりしているものの、一日一日、徐々に弱ってきているのが分かるといった状況。」
「ただ、目を覚ました時に話しかけるとニッコリしてくれ、笑顔に救われてる。」
「9月30日にお二人が来た時、まだはっきりしていて本当に良かった。」
…とのこと。
もう、何て返信していいかわかんないくらいショックでした。
とにかく、この報告を受けて、翌日10月6日(土)の義父宅での用事がスムーズに済んだら、そのまま施設にお見舞いに行こう、という気持ちになりました。
すると、土曜日は申し合わせたように業者さんが朝10時に到着し、すべて滞りなく終了。
10時半には私たちもそのまま施設に向かえました。
お昼前に施設に着いて部屋に入ると、義姉がラインで報告していたように、苦しそうにむせる義父の姿が見えました。
一足先に到着した義兄夫婦が水を含ませようとしたら、飲み込めないし、自力で出すこともできなくなっているとのこと。
ただ、むせが治まっている時に話しかけると、コクっとうなずきます。
午前中はお風呂に入ったそうで、おひげも剃って、さっぱりしたお顔をしているので、
「きれいにしてもらって良かったね〜。」
と言うと、コクッとしたり。
しかし、またさらにだいぶ痩せてましたし、義父が自らの意思を示す力はもうなくなってました。
そこへ、施設のスタッフさんが昼食を運んできました。
すべてペースト状のものです。
ベッドの角度を変えてからだを起こし、とろみをつけたお茶に痛み止めを混ぜて含ませてくれましたが、やはりむせるだけで口から出てしまいました。
誰もが無言。
スタッフの動きと、おとうさんが力なくむせる口元を、みんなが見つめるまま何分過ぎたかわかりません。
でも、スタッフの方もさぞかし困っているだろうと思い、私が
「もう入れても苦しいだけなので、無理にあげなくてもいいです。」
と言うと、スタッフも
「この食事に関しては中止しましょう。今あげたら誤嚥の危険があるので。」
と判断してくれました。
どう考えても、次の週末にまたお見舞いに来られるような気はしません…。
みんなが一斉に帰る時、私はおとうさんに顔を近づけ、痩せ細った腕をさすりながら、
「おとうさん、もうさよならだからね。
これが最後だよ。
本当にこれまでどうもありがとう。」
と言って別れました。
おとうさんは、6日前のように自分から言葉を発することはありませんでした。
2018年9月30日、台風の日。義父との再会で見た涙
2018年当時、私は千葉で思春期ブルー相談室の活動として、2カ月に一度不登校の子を持つお母さんが集まるおしゃべり会を開催していました。
2018年の9月30日は、そのおしゃべり会の予定だったのですが、義父危篤で一族集合のためやむなく中止。
その日の朝は、前の晩から続いていた台風24号の影響で、わが家のベランダもこれまで経験がないほどの荒れぶりでした。
交通機関もだいぶ影響を受けていたので、もし義父のことがなくてもおそらくおしゃべり会は中止せざるを得なかったと思います。
不思議なもので、義父のことに集中できるように、お天気まで仕組まれたような日でした。
その日より前、私が最後に義父に会ったのは1カ月以上前の8月25日で、白内障の手術で入院していた病室で、介護施設入所の面談があった時です。
その時に、私に会うと混乱に拍車がかかる父親を見て、夫が会わない方がいいと判断しました。
そして施設に入所して半月、義父は突然しゃべれなくなってしまったのです。
緊急搬送された病院にお見舞いに行った夫によると、ほとんどずっと眠っていたそうです。
時おり目を開けて、びっくりしたような表情を見せるけれど、息子だとわかっているとは思えなかったとか。
そのときの写真も見せてくれましたが、何かしら脳に損傷があるだろうな、という印象でした。
突然の入院から毎日ようすを見てくれている義兄夫婦によると、特別な延命治療はしないと決めて退院し、施設に戻ってからの方が、飲む量も食べる量も増えているとのこと。
日に日に意識もはっきりしてきて、それとともに笑顔も出るようになったそうです。
そこまでの情報があり、義父が白内障手術での入院中から、約1カ月ぶりに会いに行きました。
しかし、義父からすっかり嫌われていた私は、今回のお見舞いでも嫌がられるんじゃないかと覚悟していたのです。
台風も去ってよく晴れたお昼ごろ、私たち夫婦は初めて施設を訪れました。
ベッドに寝ているおとうさんに私と夫が顔を近づけてあいさつすると、目を開けて、二人の顔を交互に見たおとうさん。
私たちを認識しているようで、笑顔で迎えてくれました。
声は出ず、息の音で「あー」と言っています。
私たちが「わかる?」と聞くと、うなずいてくれました。
しばらくは先に到着していた長男夫妻が入れ替わりおとうさんにあいさつしたり、スタッフや看護師さんが出入りしたり、長男がおとうさんの家から持ち出して来た古い写真を見たりして、ワサワサと過ごしていました。
騒々しいからなのか、おとうさんも目を開けていて、腕をよく動かしています。
ちょっと落ち着いてきたころ、私がベッドの脇に置いたイスに座っておとうさんを覗き込んでいると、
私に向かって息の声で
「話がある。」
と言い出しました。
「話があるの?」
と聞くとうなずきます。
みなでおとうさんに注目し、耳をそば立てて聞いています。
でも、その先の言葉は息の音が判別できず、言いたいことはわかってあげられませんでした。
「わかんなかった!もう一回言ってみて!」
とお願いしましたが、チャレンジはしてくれません。
「ごめんね。」
と謝りながら私はおとうさんの手を握りました。
するとおとうさん、空いているもう片方の手で私の頭を引き寄せ、チョンと撫でて、目と鼻を赤くして泣き出しました。
初めて見るおとうさんの泣き顔を見て、私も涙が溢れてしまいました。
私は、
嫌われてしまったと思ってたから、もう会えないと思ってたこと。
毎日おとうさんのことを思っていたこと。
おとうさんが大好きなこと。
また会えて嬉しいこと。
家の手続きから何から何まで息子たちがやってくれたから、あとのことは何も心配いらないこと。
ひきこもりの娘が高卒認定の勉強頑張っていること。
こういうことを、泣きながら話しました。
途中、兄夫妻は気をつかって席を外してくれたので、おとうさんと私たち夫婦の3人で少しの間過ごしました。
狭い部屋ですが、3人になってみると急に静かな空間になりました。
そして、しょっちゅう3人で楽しく会話して過ごしていたことが、急に懐かしく思い出されました。
もう、ゆっくり時間をかけてお酒を飲みながら食事をすることもないでしょう。
犬の散歩の途中でおとうさん家に寄り、おしゃべりを楽しむこともできません。
おとうさんは、息の音で「予想と違う」みたいなことを言っているようでした。
「そろそろ」とも言っています。
夫と2人で考えながらおとうさんに聞き返しますが、返事はなし。
耳が遠くて声が聞こえないのかもと思いましたが、住民票の異動が済んでいることや、家の引き渡し手続きも長男がやっていることを伝えると、目を大きく見開いて(そうなの?)みたいな顔をしていたので、どうやら私の声は聞こえているみたい。
本当はおとうさん、施設はやっぱり嫌だったのだと思います。
倒れる前に夫に電話してましたから。
入院中はあれだけ施設に入ることを切望していましたけど、入ったら入ったでプライバシーがなくて自分のペースで生活できないのが辛くなっちゃったんでしょう。
でもね、延命治療をしないと決めて施設に戻ってきたおとうさんにそのことを指摘しても何にもなりませんからね。
夫も私もその点については触れませんでした。
そして私は、
おとうさんはこれまで十分頑張ったし、
二人のいい息子を育てたんだから、それでいい、
おとうさんとおかあさんは私の理想の夫婦、私たちは二人を目指して、これからも頑張ります、
と伝えました。
それから、
「今まで本当にどうもありがとう。」
と、
「また来るね。」
も。
言いたいことは言えたような気がしますが、おとうさんが言いたいことは聞き取ることはできなかったので、それは申し訳なかったなー…。
でも、イライラしたようすはなかったし、お顔も穏やかだし、不安そうでもなかったので、よしとしよう!と思いました。
それに、私ももう嫌われてはいないような気がしました。
最後に私たちが部屋を出るとき、おとうさんの方から
「ありがとうね。」
とあいさつしてくれました。
声とはならず息の音ではありましたが、自然に出てきた言葉で、いつものジェントルマンなおとうさん。
これが、とってもとっても嬉しかったです。
そして私は、夫と長男夫妻に、
「仲直りできたと思う!」
と、自信を持って言えたのでした。
ということで今回の記事は以上です。
お読みいただきありがとうございました。
2018年9月29日。約1か月ぶりに義父に会う前日に私が思っていたこと
2018年8月31日に白内障の手術をした病院から退院し、直接介護施設に入所した義父。
半月後の9月16日の朝、突然しゃべれなくなって救急病院に入院。
積極的な延命治療を望んでいなかった義父の意思を尊重し、9月25日に退院して施設に戻りました。
施設で出迎えてくれたホーム長さんが
「私のことわかりますか?」
とあいさつしたら、おとうさんは救急病院に入院した以来初めて声を出して
「わかる。」
と言ったそうです。
ブラザーズの話し合いで、9月30日(日)に長男夫妻と私たち次男夫婦が施設で集まることになりました。
今回の記事は、その日を翌日に控えた9月29日の夜に、前のライブドアブログでアップした記事をそのままお届けしたいと思います。
以下からがその記事です。
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人は、この世に生まれたからには、絶対に死にます。
生まれる時は、必ずお母さんのからだから出てくる、という共通点があるものですけど、この世の去り方は本当にいろいろですね。
年をとってからだの機能が衰えていくのは、それこそ寿命として受け入れやすい亡くなり方だと思います。
が、それでも、医療が発達した今の社会では、まるで老いることが病気のように感じている人も多いような気がします。
日本では、今から50年ほど前まで、自宅で亡くなる人と病院で亡くなる人が半々くらいだったようですが、その後病院で亡くなる人が約8割に達したそうです。
欧米諸国は病院で亡くなる人は5割前後ということですから、いかに日本が延命治療に熱心だったかが分かると思います。
ここ数年は、日本でも延命治療を望まず、自然な死を迎えるために自宅や施設で亡くなる方も増えてきているとのこと。
わが家でも、前の年に亡くなった義母を施設で看取りました。
義母は、食べ物も飲み物も受け付けなくなってから数日かけてからだの浄化をし、お顔もお肌もスベスベのピカピカのまま、全く苦しむことなく、スーッとさよならしていきました。
点滴もしていなかったのでむくみもなく、本当に枯れるように、見事なまでの美しさでした。
死因も「老衰」です。
病院で亡くなっていたら、もしかしたら病名を付けられていたかもしれませんね。
実際病気はいくつかあったわけですから…。
義母を看取ったときに、施設のケアマネさんが言ってました。
人は、本当にその人らしく亡くなっていくんだそうです。
性格が出るんですって。
義父は、せっかちさんですからね。
義母が8年くらいかかった状態まで、わずか2ヶ月で進みました。
さて、明日はいよいよお見舞いです。
夫が、私を義父と会わせない方がいいと判断してから1ヶ月。
こんなに早く、また会えるとは思ってもいませんでした。
明日は、どんな話ができるかな。
私はちゃんと感謝の気持ちを伝えられるかな。
まだ最後にならなければいいな。
いろんな思いがめぐっています。
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ということで今回の記事は以上です。
お読みいただきありがとうございました。
お見舞いした感想は、また後日ブログしますね。
2018年9月16日。義父、施設入所から半月、言葉が出なくなり救急搬送
前回の記事では、義父が入院している病院から直接介護施設に移動し、体験入所から本契約した話を書きました。
今回はその続きです。
2018年の9月12日(水)。
義父がわが家の近くにいた時にお世話になった地域包括支援センターの担当者さんが私に電話をくれました。
急な展開になって引っ越されたので、おとうさまにご挨拶もしていないから直接電話をかけても構わないか、という内容。
「もちろんどうぞ」とお答えしましたが、私が電話をしても出ないし、ラインも見ないので、どうなるかはわからないことも伝えました。
ところが、またその担当者さんから電話があり、たった今おとうさんと直接話したとのこと。
その内容よりも、おとうさんが電話に出たことにびっくりして、私もすぐにかけてみたんですけど、やっぱり出ず…。
もしかしたら、私からの電話だから出なかったのかなぁ、と少々へこみました。
この日の夜、おとうさんの住民票を千葉から神奈川に移す打ち合わせをブラザーズのライングループでしました。
先ほどの担当者さんから、介護保険の件で区分変更届けを出して、今の要支援1から変えた方がいいと言われたからです。
千葉からの転出届でおとうさん本人のサインが入った委任状がいるため、翌日9月13日(木)には義兄が委任状を持って施設を訪れ、おとうさんに名前だけ書いてもらいました。
手に力が入らずペンを持つことも難しくて、住所欄まで全部を書くのは無理だったため、本当に名前だけ。
でも、かろうじて漢字で正確に書けているのを写真に撮ってラインに添付してくれました。
あとの部分は義兄が記入し、私が役所に提出する手はずになりました。
その2日後の9月15日(土)、長男夫妻が千葉のおとうさん宅に来て、おとうさんから頼まれた洋服や布団、お位牌などを持ち出したついでにわが家のポストに寄り、その委任状を入れておいてくれました。
その翌日、9月16日(日)のことです。
義父は病院に救急搬送されました。
朝突然声が出なくなり、しゃべれなくなったそうです。
症状は失語症、構音障害。
脳梗塞を疑い、入院した病院でMRI、CTの検査を受けました。
前日の9月15日までは施設の人に付き添ってもらいながら歩き、自分で食事もし、おしゃべりもしていたのに…。
立つこともできず、飲み込む力も弱くなり、ほとんど眠っていて家族のことも認識しているかわからない状態になってしまったのです。
9月19日(水)。
検査の結果から脳梗塞の兆候はなく、認知症が進んだのでは、という説明だったと義兄からライングループで報告がありました。
翌9月20日(木)に夫がお見舞いに行きましたが、確かに認知症の人のような顔つきになっていて、看護師さんから名前を呼ばれても返事もしなかったそうです。
救急病院だったため、胃ろうや点滴で延命治療をするなら転院、積極的な治療をしないなら退院、と言われました。
それで、9月6日に施設と本契約した際に胃ろうはしないと決めていたおとうさんの意思を尊重し、9日間の入院は終わったのです。
9月25日(火)。
退院し、介護施設のドクターが診察してくれたところ、MRIには映らないてんかん、もしくは一過性脳虚血発作だったのではないか、と言われたそうです。
点滴はしていないので、自力で水分と栄養を摂取するしかないのですが、退院してからの方が反応がよく、笑顔が出るようになったと義姉が報告してくれました。
2017年に他界した義母は、認知症だと診断されてから歩けなくなり、寝たきりになるまで数年かけてゆっくりゆっくり進みました。
ところが義父は、施設に入所してわずか半月です。
数日前まで字も書けていたのに…。
その年の暑い夏、熱中症になりながらウォーキングをやめてくれなかったあたりから、心配の元はありました…。
それにしても2カ月しか経っていないのですから、その速度に驚きでした。
義父の場合、原因はこれ、と断定できるものではなく、せん妄も、認知症もあったでしょう。
そこに施設のドクターの言うとおり、一過性脳虚血発作が起こって言葉が出なくなったのかもしれません。
それにしても、9月13日に書いてもらった転出届の委任状のサインは、これ以上ないほどギリギリのタイミングだったと、この記事を書いていてわかりました。
おとうさんの人生で最後に書いたのは、自分の名前でしたね。
住民票の転出届は、義兄の事務的な希望で9月15日を転出日としました。
今になって、その日がおとうさんが自分で歩き、意思を伝えられた最後の日だったと気づきましたよ。
つくづく、不思議な気持ちになりますね〜。
ということで、今回はここまでとします。
続きはまた次回に!
2018年9月初旬。義父、施設へ体験入所から本契約へ
2018年8月半ば、白内障の手術のために入院したら、なんと初日に転んで背骨の圧迫骨折で歩けなくなり、結局義父の希望で退院と同時に介護施設に入所したのが8月の最終日でした。
千葉のわが家の近くにある、前年亡くなった義母がお世話になった介護施設が満室だったため、長男のいる神奈川県に移りました。
私は、この夏の義父の急激な衰えから、何かと用事があって週に5日くらい義父宅に通っていた生活から一変、長らく続いていたお世話が突如として終わりを告げたのです。
2018年の夏は、私はひきこもり娘の高認受験宣言にびっくりさせられ、義父には振り回されたあげくに遠くに飛ばされた感覚で、あまりの生活の変化にポカンとしちゃってました。
実際はおとうさん宅の引越しそのものはまだ残ってましたが、なにせ本人がいないので緊急性もなければ切迫感もなく、不思議な感じだったのです。
ただ残念だったのは、これまで培ってきた、義父と私のチームとしての信頼関係が崩れてしまったこと。
義母が認知症とわかってから10年間、結果的に私が一番気をつけていたのは、一人暮らしをしていた義父の精神面のサポートです。
私と話すと一番ホッとする、と言ってくれるほど信頼してくれていたのに…。
義母の一周忌以降、義父にとって私は「怒る人、注意する人」となってしまいました。
入院、施設入所と大きな環境変化が続きました。
高齢者の脳にとって、良いわけがないんですよね。
おとうさんも、明らかに混乱が続いています。
病院に入院していた時は、息子たちに夜中や明け方に電話して、「早く施設に入りたい」と訴えていましたが、入所したら入所したで「元に戻りたい」と電話してました。
2018年9月4日(火)の夜、義兄からのラインに、千葉の地域包括支援センターの担当者さんから電話があったと報告がありました。
おとうさんは、担当者さんには「ここにいるしか方法がない。」と話したみたいで、長男は「施設に入ることはやむを得ないと感じているようです。」
と書いていました。
息子たちには「施設を出たい、戻りたい。」と言っていたわりに、他人にはこういうふうに言うんだ、とちょっと不思議に感じました。
もしやますます混乱しているのかと思いましたが、義姉によるとこの日は入所したての週末と比べてずいぶんはっきりしてきたそうです。
入院中に作った圧迫骨折用のコルセットを着用していれば、再び自分の足でゆっくり歩けるようにもなり、付き添いの人がいればトイレにも行けるとのこと。
これはすごい良いニュースだと嬉しくなりました。
2018年9月6日(木)。
施設の一週間体験入所が終了し、本契約のため長男が手続きをしてくれました。
こういうふうになったのはとっても残念ですが、「一人で暮らせなくなったら施設」と言い続けてきた義父の願いは叶ったわけです。
ちゃーんと引き寄せているんですよね〜。
ただ、思いもよらないやり方、想像もしなかったタイミング、なんです。
私は、これこそ神さまのなせるワザなのかなぁと、自分を納得させようとしてしてました。
2011年におかあさんが入所した時は、アルツハイマーで本人の意思を確認できない状態だったので、家族に延命治療をどうするかの意思確認がされましたが、今回の契約時には施設側からは特にそういう確認はされなかったようです。
しかし私たちにはおかあさんの時の経験があるので、一応おとうさん本人の意思を確認しましょう、ということになってました。
おかあさんの介護中、おとうさんはたびたび胃ろうはしない、と言ってたのでそうだろうとは思っていましたが、長男が聞いてくれたところ、やはり胃ろうはなし、と確認できました。
実は、この確認が大正解!
そのわずか半月後に、医師から延命治療するのかどうか、聞かれることになったのです。
そんなこと、その時は誰も予想もしませんでしたけどね…。
ということで、この続きは次回にします。