前回からの続きです。
10月6日(土)にお見舞いをし、これが最後だと思ってさよならの挨拶をした翌朝、義兄から電話がありました。
施設から連絡があり、先ほど亡くなったとのこと…。
朝の仕事でスタッフが入れ替わり部屋を訪れ、みなさんからの朝のあいさつに笑顔を見せていたおとうさん。
ほんの5分ほどの誰もいない間に、笑顔のまま息を引き取っていたそうです。
夫が長男から知らせを受け、私に教えてくれました。
私は、「やっぱり」というのが第一声。
いかにもおとうさんらしい亡くなり方です。
娘は、おじいちゃんが亡くなったと知り、大粒の涙をこぼして固まってしまいました。
こういう非日常の一大事が起こると、娘は途端に3歳の子どもみたいになりますね。
一人で留守番するよりは、と一緒に施設に行きました。
施設のお部屋で、洋服に着替えて眠っている笑顔のおじいちゃんを見て、娘はまたぼろぼろに泣いてますが、私と夫は
「アハ。ホントに笑ってる!」
と思わず口に出てしまうほど、なんだか嬉しい気持ちになりました。
前日の苦しそうなところを見ていたので、その顔を見て、ホッとしたのです。
ホーム長さんも話してくれましたが、お風呂に入ってさっぱりして、家族のみなさんに会えた後、安心したように亡くなる方が多いんだそうです。
義母があまりにも見事に美しく、意識がないながらも施設のスタッフ全員にあいさつし、お天気まで操作して亡くなったのもすごかったですが、義父が笑ったまま、ちょっとの隙に誰にも見られずにさよならしたのも、いかにも義父の美学がそこにあるような気がしました。
これはこれで、見事な旅立ちだったと思います。
その日、自宅に戻ってからの夕方、私たち夫婦は犬を連れてビアガーデンに行き、ビールを飲みながらたくさん話しました。
不謹慎でふさわしくない表現かもしれませんが、その時の私と夫は、あちらの世界に帰ったおとうさんに対して、
「良かったね。おめでとう!」
という言葉を贈りたい気持ちでだったんです。
私たちは10年間、本当に濃い時間をおとうさんと過ごしたと思います。
2年前から病気が続き、入院、手術の合間を縫って、自分のエンディングに向けて慌てていたおとうさん。
前の年に義母が亡くなってからは、急速に体力が衰え、この夏は混乱し、私のことを怒る人と思っていました。
でも、最期は仲直りできたと思います。
おとうさんが亡くなって私たちが施設に到着したら、前日の昼食を中止すると判断してくれたスタッフとばったり廊下で会いました。
おとうさんが施設に入ってばかりのころ、スタッフたちに
「しゃべれる人がいなくなって寂しい。言葉を忘れてしまった。」
と話していたのが印象に残っているそうです。
白内障の手術で入院する時まで、毎日私と話していましたからね。
だから義父は私を見て泣いたんだと思います。
せっかちなおとうさんに振り回されっぱなしの10年でしたけどね。
最期は、おとうさんが自分で言っていた
「笑って死ねたらいいよね。」
を実現したわけですから、ほんとにあっぱれです。
夫と二人、ビアガーデンでいろんな思い出話をしましたが、2人で泣きながら笑ったのが、おとうさんの「爆笑エンディングノート」の話。
市販のもので、いつもテーブルの上に置いてあったので存在は知ってましたけど、おとうさんがいた間、私はあえて見ていなかったんです。
まさか白内障の手術から家に戻ってこないとは思いもしなかったので。
でも、転んで退院できなくなり、そのまま施設行きが濃厚になったころ、パジャマの追加を取りに行った際にひとりで見させてもらいました。
何か大事なメッセージがあるかと思いきや…。
書いてあったのは、金庫の開け方のみ。
太い油性マジックでたどたどしく、右回しで8とか、左回しで4とか。
その開け方だけ!
何カ所かに書いてあったんですけど、全部それ。
おとうさん、お茶目にも程があります!
一度、金庫の番号が思い出せなくて困った、って言ってたので、そのころ書いたんでしょうね。
ノートをめくりながら、ひとりで笑ってしまいました。
結局、その金庫は入院前に私と一緒に整理しましたから、開ける必要もなくなったんですよね。
しかもそのノート、長男夫妻は施設に入所するおとうさんの荷物を運び出したときに、持って行かなかったんです。
この悲哀がなんともおかしくて、私は「爆笑エンディングノート」と名前をつけさせていただきました。
そんなことを思い出しながら、夫と泣き笑い。
まったくもっておつかれさまでした、おとうさん!
ほんとに良かったね、おめでとう。
そちらの世界で、自由に楽しく過ごしてね!
…と、何度目かの乾杯をしたのでした。
ということで、今回は以上です。
長くなってしまいましたがここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
このブログはあと4回で終わります。