今回の話は、亡くなった義父がお世話になっていた地域包括支援センターの担当者の方が、わが家にお線香をあげに来てくれたときの話です。
おとうさんが2018年10月7日に亡くなり、それから約3カ月経った2019年1月半ばのこと。
わが家のリビングで亡くなるまでの経緯を担当者さんに話すうちに、疑問に思っていたことが解消しました。
おとうさんは、白内障手術は予定通り行なったのですが、その手術直前に転倒して背骨を圧迫骨折してから、どうも携帯電話がうまく操れなくなってしまったんですね。
電話をしても出ないし、ラインも既読になりません。
病院にお見舞いに行ったときに聞いてみると、「ぶっ壊れた」とか言ってましたし…。
電話を見せてもらうと、充電切れだったりして。
【そのときの記事はこちら】
おとうさんが施設に移ってからの2018年9月初旬、地域包括センターの担当者さんから私に電話があり、急な展開で引っ越されたので、直接おとうさまに電話をしてご挨拶したい、ということでした。
もしかしたらもうわからないかもしれないとは伝えましたが、折り返しすぐまた電話があり、たった今おとうさんと話せたと。
私もそのあとすぐにかけてみたんですけど、やっぱり通じずでした。
そのわずか数日後に、おとうさんは急にしゃべれなくなくなり、緊急入院。
10日後、延命治療を望んでいなかったおとうさんの意志を尊重し、救急病院から施設へと戻りました。
私は、9月30日に初めて施設にお見舞いに行きましたが、世話をしている義姉の話だと、倒れる前のおとうさんは、携帯にお友だちからメールや電話がきた際、
「おとうさん、〇〇さんから電話だよ、出る?」
と聞くと、首を振ったり、手でバッテンをしたりするんだそうです。
…私が送ったラインも電話も、あえて出なかったのかなぁ〜…
と、私の心に引っかかっていたんです、ずっと。
やっぱり嫌われていたのかなぁ、って…。
ところが今回、地域包括支援センターの人が言うには、あの時にかけた電話は、おとうさんが自分で受けたわけではなく、たまたまその時部屋に施設のスタッフがいて、その人がまず受けてくれて、それからおとうさんに代わったのだとか。
つまり、施設に入った時点で、もう自分で電話に出ることはできなくなっていたはず、ということでした。
だから、私からの着信をチェックして、わざと出なかったわけではないと思いますよ、と。
なんだか、それがわかっただけでもスッキリしましたし、ホッとしちゃいました。
それと、もうひとつの疑問。
おとうさんが入所してすぐ、この担当者さんと長男が電話したら、「ここにいるしか方法がない」と言っていたそうなんです。
息子たちには「帰りたい、戻りたい」と電話していたので、私は違和感を感じてたのですが、この日の会話で、これは担当者さんの創作だとわかりました。
実はおとうさん、担当者さんにも「想像と違った。やっぱり戻りたい。」と言ったんですって。
「でも、息子さんたちが困るだろうと思って、親切心からウソをつきました。」
と話してくれました。
彼は、おとうさんが大動脈弁狭窄症と診断されて、病院から介護認定を勧められたときから担当してくれていたので、そのころからおとうさんが「いずれは施設」と言い続けていたことを聞いてきました。
でも当時から彼と私は、おとうさんには施設は合わないだろうと言ってたんです。
個室とはいえ部屋は狭いですし、プライベートはあるようでなし。
食事やお風呂の時間も決まっていて、大抵は食堂でみなさんといただくわけです。
今の賃貸マンションなら2LDKをひとりでゆったり好き放題。
ひとりでチビチビお酒を飲みながら大音量でテレビを見て、好きなときに寝る、というわけにはいかなくなります。
なので、よっぽどのことがない限り、ギリギリまで自宅で暮らした方が良いと感じていました。
それが、白内障の手術前に転倒したことで、「これはよっぽどだ。」と判断せざるを得ない状態になってしまったと…。
おとうさんからの度重なるメールや電話で、おとうさん本人が施設に満足していないんだな、と私は感じていたので、担当者さんがカミングアウトしてくれたことで、そういうことだったのかー!と、やっと納得できました。
やっぱりおとうさんは一貫しておとうさんだったのです。
でも、最期に身近で世話をしていた長男夫婦にとっては必要な、優しい作り話だったと思います。
この日、彼がお線香をあげに来てくれたのは、もしかしたら私のモヤモヤを解消させようと、おとうさんかおかあさんが、気を利かせてくれたのかもしれないですね。😉
ということで今回の記事は以上です。
お読みいただきありがとうございました。
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